尼崎市立花教室ブログ

01月 06, 2020

怒られ方の流儀/アップ学習会/立花教室/尼崎市

こんにちは。新年明けましたね。
今年は対人の業務、ということで怒りについてお話致します。

怒りやすい人って、世の中にいるものです。担任の先生、先輩、上司。あなたは人生でどれだけ怒られたことがありますか??これを書いている私自身も感情的になりやすい方で、割と早く怒ります。そして私は昔からふざけることが多く、担任の先生含めて怒られる事が多々ありました。

さて、怒りについて非常に興味深い漫画、記事を見ましたので紹介します。

検索して頂く形になるのですが、新社会人はこんな怒られ方されたら無視して良い、という題名の漫画、記事です。その漫画には「失敗したことを責めるのはやめて欲しい」という記事でした。非常に興味深く、かつ共感できる記事でした。怒るのが下手な人ほど、絶対、みんなそうしてきた、等の言葉を使い、かつ人が失敗をすれば喜び勇んで俺は怒りたく無いんだ…、とお決まりの言葉を使ってマウントを取ってきます。私はこの記事は非常に共感出来ます。

失敗したことを責めたところで何も成長しません。大切なのは失敗からの脱出方法です。たまたま私がマウントを取るのが好きではないタイプなのでこうした無意味なことでは怒りません。僕は正直、怒るのが好きではありません。ただ、怒るのが好きな人、というのは存在します。必要以上にマウントを取り、こうした失敗を無意味に責めるタイプの人は要注意。
私はスマホゲーム片手に通話の音量を下げて聞き流せるタイプでしたが、これから新社会人になる真面目な人は病まないように要注意です。素敵な社会人生活が送れるよう、お祈りしております。

12月 16, 2019

勉強の基礎力/アップ学習会/立花教室/尼崎市

意志の強さとは見習わないと行けないところがたくさんある。

意志が強い、というのはとても羨ましいと感じる。私は実家を出てからというもの、7~8キロ太ってしまい、気づいた頃には自分の晩御飯の多さ、デザートの多さを止められなかったのである。

1度甘くしてしまうとそこから抜け出して行くのはとても難しい、と感じている。1度でも楽園のような食事をしてしまい、それを習慣化してしまうことで、私の食生活、というのはどんどん堕落したものになってしまった。

今は体重の増え方のあまりの衝撃に自分の食生活を何とか改善しつつはあるが、どうしても少しのデザートが辞められない。維持は出来ているが増えた体重を落とせないのである。あれほどやる、と決めたウォーキングも何処吹く風、土曜日に1時間半ほど歩いたら疲れ果てて3時間は昼寝してしまったたほどだ。食生活は改善出来たが、何か無いと今度は運動が出来ず、太った体を維持したままである。…これは早急に何とかしなくてはならない。

勉強に関しても同じである。私は中学生の時、おおよそ勉強のできる生徒では無かった。総合得点の平均点は割っていたし、1週間前になれば友達と遊びに出たものである。当たり前だがそんなことでは得点は取れない。すごく簡単な話だが、範囲のものを全て理解する勉強時間を取りさえすれば高得点は取れるのに当時の私にはそれが理解出来ず、部屋で勉強すると言えば隠れてゲームをしたものだ。高校生になってようやく、毎日受験に向けて勉強をし始めたものである。この時は志望校合格、という目標が出来たのだ。

意志、というのは非常に大切だ。そのためには簡易的で構わないから目標と、適度に自分を許す時間が必要だと考えている。
勉強も同じである。目標点をしっかり決めて、前の自分を越えよう、と決めて「まず机に向かう」ところから始めて欲しい。勉強の仕方や問題集も様々だが、「まず机に向かう」ことが勉強をする上で最も大切だと信じてやまない。行動出来る人間はえらい、と思いつつもなかなか行動に移せない教室長の戯言でした。

11月 25, 2019

思考と学び続けること/アップ学習会/立花教室/尼崎市

今回は社会人の定義について考えます。

とはいえ、社会人という言葉には定義はありません。基本的には使い手が都合のいいように解釈し、それを使い回します。

もちろん、私にも社会人像、というものがあります。自らが考えて、自身で責任を持って行動するのが社会人、だと考えています。
では、その私が勝手に決めた社会人像が、客観的な視点で一般的な社会人像とあっているのか、確認しましょう。

まず、社会人は定義されていません。
学生では無くなった人、という解釈をされることがありますが、それでは学生が終わった後、フリーターをしながらいわゆる会社勤めをしていない人は社会人でしょうか?私も学生が終わってすぐ就活をしなかったので就職までの期間は社会人ではなかったのでしょうか?
ちゃんとした人、稼ぎがある人、何を持って社会人、と呼ぶのか、定義が無いと考えます。
そして、自身が最も都合のよいタイミングで社会人、という言葉を使用します。私も大人やから、成人やから、もう小学生じゃないんだ、と毎度毎度都合よく使います。都合がいいな、と思うかもしれませんが、言葉とはそういうものです。いわゆる社会人像は間違っていないようにも感じます。

さて、昨今先輩と話をした時にある本に書いてある言葉を紹介して頂きました。仕事は群れてしたい人とそうでない人がいる、という話をもらいました。私はかなり1人で仕事をしたい派で、他人の進捗を気にして、業務を不必要なことまで報告する手間が煩わしく、また他人と価値観を共有するのが嫌だからこそ1人でしたいと考えています。

実際、ここ最近で私が全体に対する報告が良くない、という話が挙がりました。私は報告の際は良いことも悪いことも分かるようにします。他人がそれを見た時に私の失敗から学んで欲しいと思いますし、私の成功は全体の士気に関わるからですね。
ただ、人によっては失敗を見ることでこの人もこうなら大丈夫だ、と考えてしまう人もいる、という注意を受けたのでした。正直、子供でもそんなことは思わないだろう、とその時は理解に苦しみましたし、集団の価値観とはそんなものだと考えていました。しかし、それをまた全く別の先輩に、実際に本当にそう考える人もいるかもしれないから集団を収める人の耳にはよく聞こえない、とアドバイスをもらいました。
そう言われて見れば非常に納得です。学んで欲しい、と言うのは私が持つ社会人像が少し高いのかもしれません。性善説を取りすぎているのかもしれませんね。1つ、大きな学びを得ました。どの範囲が最も良いとされるか、またどこまで空気を読めばストレスにならないか、これを学び考えることもまた楽しいものです。

10月 28, 2019

「指示」について考えた/アップ学習会/立花教室/尼崎市

指揮官のタイプ、ということに今回学びを感じた。

事は会社の業務の事務作業(簡単な単純作業)の時だった。私はマニュアル1枚があるので特段大きな打ち合わせを行わずに各自読んですぐ業務に当たるよう話、そして業務を遂行した。
私と共に数人の手伝いがあり、皆それぞれの仕事をこなしてくれ、すぐに業務は終わった。後述するが、実はこれは運が良かったのかもしれない、と後々判明する。

一方で、打ち合わせを綿密に行ったが、その内容がうまく降りて来ずに当日に時間がかかってしまったグループもあった。

差はどこにあったのだろうか?後々から一緒に作業をしてくれた社員の方々と振り返りの時間があったので様々な意見を頂けた。

私が今回うまくいった1番の要素は運である。私と共に作業をしたのは自ら考えてやりながら動くタイプの人間であり、そして私自身もそうだったからやりながらこれはこう、これはこう、とアイコンタクトだけで動けたのである。まさにやりながら空気を読む。それだけである。報告自体も臨機応変で、私は別に電話中に電話をひったくられようが一切怒らないある種変わったところがあるので、それを承知した社員が私に変わって自分の持ち場の報告をしてくれた。こうした「怒らないと分かっている」信頼関係は、とても大切である。これが今回運よく上手く作用した。
では、私と共に作業した人が指示待ちで練ってから動くタイプの人ならどうだっただろうか。
マニュアル読んだやん、早くやろうよ。とある種意味の分からない指示が飛んできて場は崩壊しただろうと考えられる。

私は物事は結果が大事で過程はどうでも良いと思っている。過程が大切と思う人もたくさんいる以上、正解は無いが、相性はある。過程がどうでもいいからとりあえずやりながら、やろう。といった訳の分からない指示になるのである。しかし、上手くいく時は行く。各々が動き、各々が最大限に力を発揮する、というのもとても大切な要素だと信じてやまない。

教育も同じだと考えている。細かいカリキュラムや何をしたらいいか、というのはとても大切なことだが、それ以上に自らやる自主性、というのは大切な要素である。もちろん、やる気があるけれど何をしよう?という話は大歓迎である。出されて「えー…」ではダメだ。考える前にやってみて、合ったかどうか判断しよう。

この前のテスト前に、授業の2時間以上前から自習に来て、さらには授業が無くても自習をする生徒がいた。案の定、大きく成績は伸びて、何をしたん?と聞いたら勉強した、と一言感想をもらった。自主的にやる、というのは本当に大切である。やる気を持ってしっかりやった、自信を持った、という事実が彼には残り、そして結果を出してくれた。私にはそれがとても嬉しかった。

教育、というのは本当に難しい。指示を出し過ぎれば自主性が無く、その行動に責任感を生じない。かといって出さなければ相手は路頭に迷う。相手が何を求めているのか、どんなタイプなのかをしっかり見極めて教育を考える必要がある。

10月 13, 2019

常識にとらわれない思考の楽しさ/アップ学習会/立花教室/尼崎市

スーツについて色々と考えることがあったのでぜひ共有したいと思う。

つい最近のこと、会議の時にちょうどスーツの上着を忘れてしまい、そのまま会議に臨んだ日のことであった。終わってから、上着を着るように強要されたのである。これが考え方や文化の違いを感じて非常に面白く感じた。

私が会議の時に上着を着る理由は単に上着を着ていると無難であるから、という理由であり、当日はまだ10月とはいえ上着を着ていくような気候で無かったから、うっかり忘れてしまったのである。対して、注意をした側の上司は会議に上着を着るのが本人の中での常識であり、私が上着を着ていないことに対して違和感を感じたに違いない。私一人が上着を来ていなければ私の服装は非常に浮いたものになっただろうが 、上着を着ている人の少なさにもまた考えさせられた。全員が集まる会議、というものをどれくらい重く捉えているかがよく見えるからである。

私は夏場は単に見るからに暑苦しいし、TPOをわきまえられない人だと思われたくないから、教室で上着を着ることはまずない。しかし、人によっては人前に出るのだから上着を着用するのが常識だと考える人もいる。どちらの考えも何一つ間違っていない。確かに強要するのは間違っているが、こうした多様な考え方というのは必要なことなのである。

以前、内定式の時に10月の頭でまだ暑さが残る中に関わらず、暑苦しそうにスーツを着て同じ服装、同じような髪型をした学生をたくさん見かけた。もっと考えられる人になって欲しい、と考えるが、私が8年前の、22歳で同じ場面に遭遇した時に、上着を着ずに内定式に臨むことが出来ただろうか?おそらく答えはNOだろう。変わった服を着ていくこと自体がリスクであり、無駄なリスクを冒すものでないと考えたと思う。これは社会人の経験がそう考えさせたのである。私は最初に内定式を経ずに会社への就職をしたため、こうした儀礼的なものへの意識が特別低いのかもしれない。これもまた、考えておく点でもある。そして今回上着を忘れるほど意識が下がったのは単にまた同調意識が下がったからに他ならない。

私は単に忘れたから、という理由で上着を着なかったので、忘れさえしなければあの暑い中、意味もなく上着を着て会議に出ただろう。何の疑問も持たずに上着を着た方が無難だ、当たり障りがない、というただそれだけの理由である。忘れたのは単に全員が真っ黒の服装で会議をしているからでは無いから同調意識が下がったのであろう。今の時代、そういうものなのである。ただ、私も仕方なく同調しておこうか、という理由でそこで思考を辞めてしまった。働く上で考えることはとても大切なことだが、単なる無意味な同調文化で思考を停止させたことは私自身、反省しなくてはならない。SNSの発達により、少しずつ働き方や日本人の考え方は変わってきている。とはいえ無意味に強要されたことの反抗もすべきでないと考えている。別段、どちらが正解なのか分からないだけで、間違えたことを強要されたとは思っていないからだ。

場面場面でストレスに感じることもあるだろうが、そのような場面にこそ、考えるべき種というのは埋まっているのである。なぜ相手がそう考えるのか、相手の常識と自分の常識の乖離は何か、そしてなぜ相手はそうしたことを強要するのか、たくさん考えて成長に繋げたいものである。しっかり考えられる人になるべきだ、とその一件からたくさん考えることが出来た。

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