大阪市千鳥橋教室ブログ


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10月 25, 2020

教室長の歴史講座~明智光秀編~ アップ学習会千鳥橋教室

皆さんこんにちは!アップ学習会千鳥橋教室です。

寒さがきつくなってきましたね。秋というよりはもう冬の気分です。
そろそろ冬物のコートが必要になってきます。体調管理には気を付けましょう!

さて、今回は以前にもブログのテーマにした「教室長の歴史講座」です!
前回、大好評いただいた(自分調べ)企画になっております!
今回のテーマはズバリ…

明智光秀です!

皆さんも1度は名前を聞いたことがあると思います。戦国時代の武将で、主君である織田信長に反旗を翻した「本能寺の変」を起こしたことで有名な人物です。今、NHKで彼をテーマにした大河ドラマ「麒麟がくる」が絶賛放映中であり、そのことで最近人気が出てきている武将です。「麒麟がくる」、とても面白いのでオススメです!

 

さて、明智光秀について皆様どれだけのことを知っていますか?ほとんどの人は「本能寺の変」を起こした人物しか知らないのではと思います。今回は皆さんがあまり知らない明智光秀について解説します!

 

明智光秀の生涯は謎が多いです。出生地やいつ生まれたのかも明らかにはなっていません。土岐源氏の流れを組む明智家に生まれたとされ、一説には美濃(現在の岐阜県)で当時の大名、斎藤道三に仕えたとされています。そんな明智光秀が歴史の表舞台に姿を現したのは、室町幕府の15代将軍、足利義昭の将軍即位の時です。織田信長が足利義昭を奉じて尾張(現在の愛知県)から上洛をしてきた際に信長と将軍家の中継ぎをしたそうです。それ以降は将軍家の家臣として働いていましたが、信長と義昭の関係性が悪化した時点で信長に仕え始めたとされています。

その後は信長の家臣として活躍していましたが、1582年に突如主君である信長に反旗を翻します。俗にいう「本能寺の変」です。光秀がなぜ信長を討ったのか、その確かな理由は明らかになっていません。自身に対する不当な扱いを恨み反逆したとも他に黒幕がいたなんて説もあります。

信長を討った後、光秀は一時的に天下人の座につきますがそれも一瞬で終わります。信長の家臣、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって討たれたからです。この光秀と秀吉の戦いは「山崎の戦い」といいます。この戦いが元で生まれた言葉が、大事な場面を意味する「天王山」です。山崎の戦いで敗走した光秀は逃げる途中、農民に討たれたといわれています。信長を討ってから自身が討たれるまでの期間が短かったことから俗に「三日天下」と言われています。

 

ここで1つ豆知識です。明智光秀には子孫がいますがご存知でしょうか?

有名なところでは坂本龍馬が子孫であるといわれています。坂本家の家紋が光秀の家紋である「桔梗紋」と似ているということから子孫説が出ています。

確証を持って子孫と言える人物で有名な人を二名紹介します。

一人目は元総理大臣、細川護熙です。

明智光秀の娘の一人、玉は光秀の友人の息子、細川忠興に嫁ぎました。その後キリスト教に入信し、細川ガラシャとなりました。その子孫は江戸時代で熊本藩の藩主となり現代までその血筋を残しました。細川護熙はその出自から「殿」の愛称で呼ばれていました。

 

2人目は我が国の象徴、天皇家です。

細川ガラシャの子孫が天皇家に嫁いでいるため、現在の天皇家は明智光秀の子孫となっています。今の天皇陛下であらせられる徳仁さまも明智光秀の子孫となります。驚きですね!

 

いかがでしょうか?

明智光秀について少しは興味を持っていただけましたでしょうか?

この知識をもって「麒麟がくる」を見るとより楽しめると思います!興味を持っていただけた方は是非見てみてください!

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