徳川綱吉 | 松原教室
こんにちは!松原教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「徳川綱吉」について解説します。
徳川綱吉は、江戸幕府の第五代目の将軍です。
徳川綱吉は、1680年に将軍に就任しました。徳川綱吉は、文治政治という徳を重んじる政治を推進しました。綱吉が行った主な政治は以下の通りです。
・朱子学を奨励
綱吉は、儒教の一つである朱子学を重視し奨励しました。その学問を教える場所として湯島聖堂を建立するなどしました。
・貨幣の質を下げる
綱吉の時代、幕府の財政状況は悪化しており、それに対応するために金貨・銀貨に含まれる金・銀の量を減らした貨幣を鋳造しました。これにより、幕府の財政は潤うこととなりましたが、貨幣の質の低下は貨幣の価値を下げるため、物価上昇であるインフレーションが発生し、経済は混乱することとなりました。
・生類憐みの令
生類憐みの令とは、捨て子や病人、高齢者、そして動物を保護することを定めた法律です。犬などの動物を保護する法律として知られています。過剰に動物を保護する内容だったため、悪法として評価されることも多い一方で、社会の変革を意図した法律と評価する意見も見られます。
<まとめ>
・徳川綱吉は、江戸幕府の第5代将軍であり、朱子学の奨励や、貨幣の質を低下させる、生類憐みの令などの政策を行いました。
絵踏み | 松原教室
こんにちは!松原教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「絵踏み」について解説します。
絵踏みとは、江戸時代に禁止されていたキリスト教の信者を見つけるために江戸幕府が行った手法をいいます。
江戸幕府は、1612年にキリスト教禁止の禁教令を出しました。これにより、キリスト教は禁止されました。
幕府は、禁止したキリスト教の信者を見つけるために絵踏みを導入しました。絵踏みは、キリストや聖母マリアを彫った板を踏ませて、それを拒んだ者はキリスト教徒であると摘発しました。敬虔なキリスト教徒は、信仰の対象であるキリストや聖母マリアを踏むことは出来ず、キリスト教徒をあぶり出すことが出来ました。
なお、「絵踏み」はキリスト教徒を見つけるための手法を指し、「踏み絵」はそれに使われた絵を指します。
<まとめ>
・絵踏みとは、江戸時代に禁止されていたキリスト教の信者を見つけるために江戸幕府が行った手法をいいます。
参勤交代 | 松原教室
こんにちは!松原教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「参勤交代」について解説します。
参勤交代とは、江戸時代に大名が1年ごとに江戸に参勤すること定めた制度をいいます。
1603年に成立した江戸幕府は、幕藩体制により全国を支配していました。各藩の大名と将軍が主従関係を結んで、大名を通じて全国を支配していました。
その大名を従わせて統制するために、1615年に『武家諸法度』という法令を定めました。この法令では、城を無断で修理してはいけないなどの大名が守らなければならないルールが定められていました。
3代目将軍の徳川家光の時代に、この武家諸法度に参勤交代の制度が追加されました。
参勤交代は、大名が自分の領地と江戸とを1年おきに往復します。つまり1年は自分の領地に居て、次の1年は江戸に居て…ということを繰り返していました。自分の領地と江戸との間を移動する際には、多数の家臣を連れた大所帯で移動をしました。これを大名行列といいます。
さらに、大名の正室(妻)と跡継ぎは江戸に住まわせないといけませんでした。
このような参勤交代が行われた目的として、江戸の将軍のもとに参勤させ江戸での門番や火番といった仕事をさせることで、将軍と大名との主従関係を再確認させ、幕藩体制を維持することが挙げられます。
また、直接的な目的ではないと考えられているものの、大名に参勤交代によって財政的な負担を強いることで各藩の勢力を削いで幕府へ歯向かえなくするという効果も結果的にあったと考えられています。さらに、参勤交代のために道路が整備されて、その道中の町が整備されて発展するなどの効果もありました。
<まとめ>
・参勤交代とは、江戸時代に大名が1年ごとに江戸に参勤すること定めた制度のことをいいます。
・3代目将軍の徳川家光の時代に『武家諸法度』に追加されました。
幕藩体制 | 松原教室
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みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「幕藩体制」について解説します。
幕藩体制とは、江戸幕府における幕府と藩によって全国を支配した支配制度のことをいいます。
1600年に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました。江戸幕府の支配体制は、徳川将軍家の政府である幕府と日本全国の大名が支配する藩による「幕藩体制」という支配体制でした。武士のトップである征夷大将軍の徳川氏と各大名は主従関係を結び、各藩をそれぞれ支配していました。
大名は、「親藩」「譜代大名」「外様大名」の3種類に分けられます。
「親藩」は、徳川家康の男系男子の子孫が祖となった大名のことを指します。簡単に言えば、徳川将軍家の親戚です。
「譜代大名」は、徳川家康に関ヶ原の戦い以前から臣従していた大名のことを指します。
「外様大名」は、関ヶ原の戦い以降に徳川家康に臣従した大名のことを指します。
幕府は、江戸やその周辺、京都や大阪などの重要地、東海道や中山道といった交通の要所の近くには、親藩や譜代大名の藩を配置し、重要地から離れた場所に外様大名の藩を配置しました。これは、親藩や譜代大名に比べて、外様大名は徳川家にとって信用のできない存在だったからです。
<まとめ>
・幕藩体制とは、江戸幕府における幕府と藩によって全国を支配した支配制度のことをいいます。
・大名は、「親藩」「譜代大名」「外様大名」の3つに分類することができます。
大航海時代 | 松原教室
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みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「大航海時代」について解説します。
大航海時代とは、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ人によるアジアやアメリカへの大航海が盛んに行われた時代のことをいいます。
15世紀頃から、ヨーロッパ諸国の主にスペインとポルトガルによってアジアやアメリカへの航海が盛んに行われるようになりました。要因は様々ありますが、その1つに香辛料を求めてインドへ進出したかったことが挙げられます。香辛料は、コショウやナツメグ、シナモンなどのスパイスの事ですが、これらのスパイスは肉を保存するために使われました。当時は、当然ながら今と違って冷蔵庫や冷凍庫のような便利なものはありませんので、肉の保存をする時に香辛料を使用しました。しかし、コショウなどの代表的な香辛料はヨーロッパでは自生しておらず、インドや東南アジアが主要な産地となっていました。そのため、ヨーロッパ諸国は香辛料を求めてインドへ進出をしていきました。
大航海時代に活躍した航海者は多数いますが、代表的なのが以下の3人です。
①コロンブス
スペインの支援を受け、西廻り航路でインドを目指しました。インドはヨーロッパから見て東側にありますが、地球は球体なので西に進んでいけば東にあるインドに辿り着けると考えました。1492年に航路に出たコロンブスの一行は、長い航海の末に陸地に到達しました。そこはインドではなく、現在のカリブ海にある島でした。そのため、一般的にコロンブスはヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸を発見した人物とされています。ただし、コロンブス一行はその地をインドだと思ったため、現在でも西インド諸島と呼ばれています。なお、コロンブスがアメリカ大陸に到達する前から、先住民族はアメリカ大陸に居住しているため、新大陸を発見したというのは、あくまでヨーロッパ側からの視点であることは注意が必要です。また、コロンブスは多くの先住民を虐殺しており、批判的な評価がなされることも多いです。
②ヴァスコ・ダ・ガマ
ポルトガルの探検家であり、インドへの航海を目指しました。ヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガルから大西洋を南下して、アフリカ大陸の南端の喜望峰を廻って、インドへと向かいました。ヴァスコ・ダ・ガマは、初めて喜望峰廻りでのインドで到達した人物となりました。
③マゼラン
ポルトガルの航海者であるものの、スペイン王に信任を受けてスペインの艦隊を率いて航海に出ました。南アメリカ大陸の南端の海峡を通って太平洋へ到達しました。この海峡は、マゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれています。その後も、太平洋を横断しました。マゼラン本人は、航海の途中にフィリピンで戦死しましたが、残された艦隊はスペインに戻り、史上初の世界一周を成し遂げました。
<まとめ>
・大航海時代は、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ人によるアジアやアメリカへの大航海が盛んに行われた時代のことをいいます。
・代表的な人物は、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランの3人です。
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