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承久の乱 | 古市教室
こんにちは!古市教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「承久の乱」について解説します。
承久の乱とは、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために兵を挙げた乱のことをいいます。
1192年に源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開きました。これにより、本格的な武士の政権が始まりました。それまでは、天皇や貴族を中心とする政治体制でしたが、武士を中心とした政治体制へと転換しました。
鎌倉幕府が開かれて以降は、朝廷と武家政権である幕府が並立する形となっていましたが、初代将軍である源頼朝は天皇の血を引く清和源氏という血筋であったため、朝廷からしても身内でした。しかし、鎌倉幕府の将軍は3代目の源実朝を最後に源氏の将軍が途絶えてしまいました。その後、北条氏が執権の役職を独占し幕府の実権を握る執権政治を開始しました。
それに朝廷は反発しました。後鳥羽上皇は、幕府の倒すべく兵を挙げました。上皇の権威は絶大なので、上皇の幕府を倒せという命令に全国の武士たちは従い、幕府に味方する武士は少ないだろうと上皇は予想していました。しかし、頼朝の妻である北条政子が御家人たちに頼朝から受けた恩の深さを説く演説を行い、御家人たちをまとめ上げて多くの武士たちが幕府の味方をしたとされています。これにより、幕府側が朝廷側を破り、後鳥羽上皇の乱は失敗に終わりました。
乱の終結後、敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流されました。また、幕府は京都に六波羅探題という役所を設置しました。六波羅探題は、朝廷の監視や鎌倉から遠く離れた西日本を支配する役割を果たし、鎌倉幕府の支配はより一層強固となりました。
<まとめ>
・承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために起こした乱だが、失敗した。
・乱の後、幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視や西日本の支配を強化した。
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院政とは? | 古市教室
こんにちは!古市教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「院政」について解説します。
院政とは、皇位を譲った上皇が天皇に代わって政治を行うことをいいます。
そもそも上皇というのは、天皇の地位を自らの子どもなどの後継者に譲った天皇のことを指します。つまり前の天皇ということになります。もともと上皇の住む邸宅のことを「院」と呼んでいましたが、次第に上皇自身のことを「院」と呼ぶようになりました。上皇(院)が政治を執り行うため、院政と呼ばれています。
院政を初めて行ったのは、白河上皇です。1086年に皇位を子の堀河天皇の譲り上皇となり、院政を始めました。それまでは摂関政治が行われ、藤原氏が政治の実権を握っていましたが、藤原氏と親戚関係の薄い後三条天皇の即位から摂関政治が衰え、白河上皇の院政の開始により政治の実権は上皇へと移りました。その後、平氏や源氏などの武士が力をつけ武士が政権を握る時代へと移っていきましたが、その後も上皇による院政は続きました。
鎌倉時代の1221年には、院政を行っていた後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱を起こしましたが失敗しています。
その後も院政は続けられ、江戸時代に光格上皇という上皇が院政を行っていて、これが最後の院政になっています。
<まとめ>
・院政は、平安時代に始まった上皇が天皇に代わって政治を行うこと。
・1086年に白河上皇が初めて院政を始めた。
摂関政治とは? | 古市教室
こんにちは!古市教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「摂関政治」について解説します。
摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)が摂政や関白などの重要な役職を独占し、政治の実権を代々握ったことを指します。摂政と関白の2つの役職から名前が付いています。
そもそも、摂政と関白はどんな役職なのでしょうか?
摂政は、君主が幼少・女性・病弱であるなどの理由から政治を行うことが難しい時に、代わりに政治を行ったり補佐したりする役職です。
関白は、成人の君主を補佐する役職です。
どちらの役職も、君主である天皇を補佐する重要な役職でした。天皇が幼少か成人しているかが、2つの役職の大きな違いです。
これらの2つの役職は、平安時代に藤原氏が代々独占することになりました。この藤原氏によって摂政・関白の役職が独占されて藤原氏が大きな力を持っていた時代を摂関政治と呼びます。
特に、1016年に摂政に就任した藤原道長とその子の藤原頼通の時代は、摂関政治の全盛期とされ、藤原氏は絶大なる権力を誇っていたとされています。藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を詠んでいます。これは、「この世は、自分のための世のようなものだ。満月(望月)のように欠けている部分も何もなく、自分の思い通りになる。」という意味で、道長の権勢を象徴する歌として有名です。息子の頼通も平等院鳳凰堂を建立するなど栄華を誇りました。
では、藤原氏はどのようにして摂政・関白の重要な役職を独占したのでしょうか?
藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして、その子が天皇になると祖父として実権を握りました。つまり天皇と親戚関係を結び、その関係性を利用して政治の実権を手に入れていたのです。実際に、道長は自分の娘を3人も天皇の后にしています。
天皇の祖父となることで絶大な権力を誇っていた藤原氏ですが、藤原頼通は天皇に嫁がせた娘に男の子が生まれませんでした。その結果、藤原氏と親戚関係の薄い後三条天皇が即位して、藤原氏は影響力を持つことが出来なくなってしまいました。そうして、藤原氏の摂関政治は終わりを告げました。
<まとめ>
・摂関政治は、平安時代に藤原氏が摂政・関白という重要な役職を代々独占した政治のこと。
・自分の娘を天皇の后にして、その子が天皇になると祖父として実権を握った。
・藤原道長と藤原頼通の親子の時代が最盛期。