芦屋市打出教室ブログ

10月 28, 2019

相性と気付き/パーソナル学習会/打出教室/芦屋市

指揮官のタイプ、ということに今回学びを感じた。

事は会社の業務の事務作業(簡単な単純作業)の時だった。私はマニュアル1枚があるので特段大きな打ち合わせを行わずに各自読んですぐ業務に当たるよう話、そして業務を遂行した。
私と共に数人の手伝いがあり、皆それぞれの仕事をこなしてくれ、すぐに業務は終わった。後述するが、実はこれは運が良かったのかもしれない、と後々判明する。

一方で、打ち合わせを綿密に行ったが、その内容がうまく降りて来ずに当日に時間がかかってしまったグループもあった。

差はどこにあったのだろうか?後々から一緒に作業をしてくれた社員の方々と振り返りの時間があったので様々な意見を頂けた。

私が今回うまくいった1番の要素は運である。私と共に作業をしたのは自ら考えてやりながら動くタイプの人間であり、そして私自身もそうだったからやりながらこれはこう、これはこう、とアイコンタクトだけで動けたのである。まさにやりながら空気を読む。それだけである。報告自体も臨機応変で、私は別に電話中に電話をひったくられようが一切怒らないある種変わったところがあるので、それを承知した社員が私に変わって自分の持ち場の報告をしてくれた。こうした「怒らないと分かっている」信頼関係は、とても大切である。これが今回運よく上手く作用した。
では、私と共に作業した人が指示待ちで練ってから動くタイプの人ならどうだっただろうか。
マニュアル読んだやん、早くやろうよ。とある種意味の分からない指示が飛んできて場は崩壊しただろうと考えられる。

私は物事は結果が大事で過程はどうでも良いと思っている。過程が大切と思う人もたくさんいる以上、正解は無いが、相性はある。過程がどうでもいいからとりあえずやりながら、やろう。といった訳の分からない指示になるのである。しかし、上手くいく時は行く。各々が動き、各々が最大限に力を発揮する、というのもとても大切な要素だと信じてやまない。

教育も同じだと考えている。細かいカリキュラムや何をしたらいいか、というのはとても大切なことだが、それ以上に自らやる自主性、というのは大切な要素である。もちろん、やる気があるけれど何をしよう?という話は大歓迎である。出されて「えー…」ではダメだ。考える前にやってみて、合ったかどうか判断しよう。

この前のテスト前に、授業の2時間以上前から自習に来て、さらには授業が無くても自習をする生徒がいた。案の定、大きく成績は伸びて、何をしたん?と聞いたら勉強した、と一言感想をもらった。自主的にやる、というのは本当に大切である。やる気を持ってしっかりやった、自信を持った、という事実が彼には残り、そして結果を出してくれた。私にはそれがとても嬉しかった。

教育、というのは本当に難しい。指示を出し過ぎれば自主性が無く、その行動に責任感を生じない。かといって出さなければ相手は路頭に迷う。相手が何を求めているのか、どんなタイプなのかをしっかり見極めて教育を考える必要がある。

10月 13, 2019

スーツとそれぞれの常識/パーソナル学習会/打出教室/芦屋市

スーツについて色々と考えることがあったのでぜひ共有したいと思う。

つい最近のこと、会議の時にちょうどスーツの上着を忘れてしまい、そのまま会議に臨んだ日のことであった。終わってから、上着を着るように強要されたのである。これが考え方や文化の違いを感じて非常に面白く感じた。

私が会議の時に上着を着る理由は単に上着を着ていると無難であるから、という理由であり、当日はまだ10月とはいえ上着を着ていくような気候で無かったから、うっかり忘れてしまったのである。対して、注意をした側の上司は会議に上着を着るのが本人の中での常識であり、私が上着を着ていないことに対して違和感を感じたに違いない。私一人が上着を来ていなければ私の服装は非常に浮いたものになっただろうが 、上着を着ている人の少なさにもまた考えさせられた。全員が集まる会議、というものをどれくらい重く捉えているかがよく見えるからである。

私は夏場は単に見るからに暑苦しいし、TPOをわきまえられない人だと思われたくないから、教室で上着を着ることはまずない。しかし、人によっては人前に出るのだから上着を着用するのが常識だと考える人もいる。どちらの考えも何一つ間違っていない。確かに強要するのは間違っているが、こうした多様な考え方というのは必要なことなのである。

以前、内定式の時に10月の頭でまだ暑さが残る中に関わらず、暑苦しそうにスーツを着て同じ服装、同じような髪型をした学生をたくさん見かけた。もっと考えられる人になって欲しい、と考えるが、私が8年前の、22歳で同じ場面に遭遇した時に、上着を着ずに内定式に臨むことが出来ただろうか?おそらく答えはNOだろう。変わった服を着ていくこと自体がリスクであり、無駄なリスクを冒すものでないと考えたと思う。これは社会人の経験がそう考えさせたのである。私は最初に内定式を経ずに会社への就職をしたため、こうした儀礼的なものへの意識が特別低いのかもしれない。これもまた、考えておく点でもある。そして今回上着を忘れるほど意識が下がったのは単にまた同調意識が下がったからに他ならない。

私は単に忘れたから、という理由で上着を着なかったので、忘れさえしなければあの暑い中、意味もなく上着を着て会議に出ただろう。何の疑問も持たずに上着を着た方が無難だ、当たり障りがない、というただそれだけの理由である。忘れたのは単に全員が真っ黒の服装で会議をしているからでは無いから同調意識が下がったのであろう。今の時代、そういうものなのである。ただ、私も仕方なく同調しておこうか、という理由でそこで思考を辞めてしまった。働く上で考えることはとても大切なことだが、単なる無意味な同調文化で思考を停止させたことは私自身、反省しなくてはならない。SNSの発達により、少しずつ働き方や日本人の考え方は変わってきている。とはいえ無意味に強要されたことの反抗もすべきでないと考えている。別段、どちらが正解なのか分からないだけで、間違えたことを強要されたとは思っていないからだ。

場面場面でストレスに感じることもあるだろうが、そのような場面にこそ、考えるべき種というのは埋まっているのである。なぜ相手がそう考えるのか、相手の常識と自分の常識の乖離は何か、そしてなぜ相手はそうしたことを強要するのか、たくさん考えて成長に繋げたいものである。しっかり考えられる人になるべきだ、とその一件からたくさん考えることが出来た。

10月 02, 2019

よく考え、よく学び/パーソナル学習会/打出教室/芦屋市

10月1日、多くの会社は内定式を迎える。内定式に向かう学生のほとんどは同じ髪型、同じ服装、同じ黒のカバンとそれは奇妙な集団であった、とSNSを通してだが、様々にそう口にされている。個性は一体どこに行ってしまったのだろうか。

そして近年、「~をさせて頂いてます、~です。」というさせられてるんかい!じゃあせんでいいわ。というやる気のないツッコミ待ちの自己紹介もよく見られるようになった。
私は理系で国語には明るくないので、気になって調べてみたら、やはり誤用だ。 させられてやる気が無いならしないていいよ。としか感じられない。しかし近年、こうした表現は数多く見られ、やる気の無さ、させられてる感は非常に多く感じる。

ただ言われた事だけをやって、それが仕事だとストレスを溜めて、そして飲みに行き、これが仕事だ、美学だと言われていることもある。本来、仕事は自分自身の人生を彩る手段だと言う話を聞いた事があり、これは強く共感できる。私自身もそう思う。守破離が大切だから、最初は言われていることを素直に聞いているだけでいい、ということは無いと思っている。それこそ上司が考えた「やりやすい部下」なだけであって、何一つ成長に繋がらない。今の世の中で、自分が社会において、スキルアップをして行きたいのなら、素直に黙って聞くだけでは無くて、なぜそうするのかを考えて欲しいと強く感じている。私は部下にはそう考えて欲しいとは思わないし、なんなら言ったことに対して逐一疑問を持って欲しい。そうじゃないと責任感なんて育たない。

私は塾の教室長、という立場上、入社の1年目から講師という部下がつくことになる。そうした教育を出来ているかどうかは全く分からない。私は働く、ということを時間をお金と人生の彩りに変えていると考えている。私だけでなく、自分の部下になった講師や社員も同じである。お金をもらって働かせて頂いている、という考え方も間違いでは無いと思うが、今くらい働き先がたくさん選べる世の中で、自分達と働いてくれる、というだけで私は嬉しく感じている。頑張ってくれていたら、この上なく嬉しい。みなが努力して、それぞれが自分の至高を作る教室にしたい、と3年間切に願い続けてきた。

この3年間、様々なことがあり、様々に思うことがあった。全く納得の行かないことは形だけやって、こうするべきだ、ということを実践してきたつもりである。そうしたことは責任感もあるから例外なくうまくいった。納得しないことは納得しないだけの大きな理由があるからだ。何も頭ごなしに反抗しよう、というわけではない。そして困難は何だかんだで乗り越えてきた。

仕事は人の主観でするものだから、それを報告すれば報告の受けた側の主観1つで大きく捉えられかたも変わるものなのだ。そんな認識のズレに付き合っている暇はない。この3年間、大きく学んだことの一つである。自分の感動体験や仕事に対する想い、というものは中々人には伝わらないのである。

そしてそれは自分自身にも応用できる。私もこれはダメだろう、と自身の主観だけで何も考えず、頭ごなしに叱ることも増えている。上に立つもの、というのは自身の主観だけで物事の善悪を判断し、悪だと思えばそれは悪だと話す。少なからず、私も講師の上に立つ人間なのだから、そうした自分勝手な善悪のフィードバックを少なからずやっている。しかも私はそれを正義だと思ってやまない。私自身も人はこうあるべきだ、と勝手な人格像を作り出して自身の主観という色眼鏡で物事を判断する。

教育というものは本当に難しい。自分と相手は別人なのだから、自分の主観を押し付けるだけでは相手をただ批判するだけに相当する。批判は教育とは違う。こうではないだろうか、というものを考えることは出来たが、未だに実践することは出来ていない。

ただ1つ、私は色々な人にもっと考え、人生を彩り深くして欲しい、と切に願っている。私自身も学ぶことや考えることを辞めず、今後とも歩みを進めていこうと思う。

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