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02月 04, 2024

院政とは? | 古市教室

こんにちは!古市教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「院政」について解説します。


院政とは、皇位を譲った上皇が天皇に代わって政治を行うことをいいます。

そもそも上皇というのは、天皇の地位を自らの子どもなどの後継者に譲った天皇のことを指します。つまり前の天皇ということになります。もともと上皇の住む邸宅のことを「院」と呼んでいましたが、次第に上皇自身のことを「院」と呼ぶようになりました。上皇(院)が政治を執り行うため、院政と呼ばれています。

院政を初めて行ったのは、白河上皇です。1086年に皇位を子の堀河天皇の譲り上皇となり、院政を始めました。それまでは摂関政治が行われ、藤原氏が政治の実権を握っていましたが、藤原氏と親戚関係の薄い後三条天皇の即位から摂関政治が衰え、白河上皇の院政の開始により政治の実権は上皇へと移りました。その後、平氏や源氏などの武士が力をつけ武士が政権を握る時代へと移っていきましたが、その後も上皇による院政は続きました。

鎌倉時代の1221年には、院政を行っていた後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱を起こしましたが失敗しています。

その後も院政は続けられ、江戸時代に光格上皇という上皇が院政を行っていて、これが最後の院政になっています。


<まとめ>
・院政は、平安時代に始まった上皇が天皇に代わって政治を行うこと。
・1086年に白河上皇が初めて院政を始めた。

01月 29, 2024

摂関政治とは? | 古市教室

こんにちは!古市教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「摂関政治」について解説します。


摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)が摂政や関白などの重要な役職を独占し、政治の実権を代々握ったことを指します。政と白の2つの役職から名前が付いています。

そもそも、摂政と関白はどんな役職なのでしょうか?
摂政は、君主が幼少・女性・病弱であるなどの理由から政治を行うことが難しい時に、代わりに政治を行ったり補佐したりする役職です。
関白は、成人の君主を補佐する役職です。
どちらの役職も、君主である天皇を補佐する重要な役職でした。天皇が幼少か成人しているかが、2つの役職の大きな違いです。

これらの2つの役職は、平安時代に藤原氏が代々独占することになりました。この藤原氏によって摂政・関白の役職が独占されて藤原氏が大きな力を持っていた時代を摂関政治と呼びます。
特に、1016年に摂政に就任した藤原道長とその子の藤原頼通の時代は、摂関政治の全盛期とされ、藤原氏は絶大なる権力を誇っていたとされています。藤原道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を詠んでいます。これは、「この世は、自分のための世のようなものだ。満月(望月)のように欠けている部分も何もなく、自分の思い通りになる。」という意味で、道長の権勢を象徴する歌として有名です。息子の頼通も平等院鳳凰堂を建立するなど栄華を誇りました。

では、藤原氏はどのようにして摂政・関白の重要な役職を独占したのでしょうか?
藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして、その子が天皇になると祖父として実権を握りました。つまり天皇と親戚関係を結び、その関係性を利用して政治の実権を手に入れていたのです。実際に、道長は自分の娘を3人も天皇の后にしています。

天皇の祖父となることで絶大な権力を誇っていた藤原氏ですが、藤原頼通は天皇に嫁がせた娘に男の子が生まれませんでした。その結果、藤原氏と親戚関係の薄い後三条天皇が即位して、藤原氏は影響力を持つことが出来なくなってしまいました。そうして、藤原氏の摂関政治は終わりを告げました。


<まとめ>
・摂関政治は、平安時代に藤原氏が摂政・関白という重要な役職を代々独占した政治のこと。
・自分の娘を天皇の后にして、その子が天皇になると祖父として実権を握った。
・藤原道長と藤原頼通の親子の時代が最盛期。

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