本部からのお知らせ

06月 18, 2024

大航海時代 | 藤井寺教室

こんにちは!藤井寺教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「大航海時代」について解説します。


大航海時代とは、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ人によるアジアやアメリカへの大航海が盛んに行われた時代のことをいいます。

15世紀頃から、ヨーロッパ諸国の主にスペインとポルトガルによってアジアやアメリカへの航海が盛んに行われるようになりました。要因は様々ありますが、その1つに香辛料を求めてインドへ進出したかったことが挙げられます。香辛料は、コショウやナツメグ、シナモンなどのスパイスの事ですが、これらのスパイスは肉を保存するために使われました。当時は、当然ながら今と違って冷蔵庫や冷凍庫のような便利なものはありませんので、肉の保存をする時に香辛料を使用しました。しかし、コショウなどの代表的な香辛料はヨーロッパでは自生しておらず、インドや東南アジアが主要な産地となっていました。そのため、ヨーロッパ諸国は香辛料を求めてインドへ進出をしていきました。

大航海時代に活躍した航海者は多数いますが、代表的なのが以下の3人です。

①コロンブス
スペインの支援を受け、西廻り航路でインドを目指しました。インドはヨーロッパから見て東側にありますが、地球は球体なので西に進んでいけば東にあるインドに辿り着けると考えました。1492年に航路に出たコロンブスの一行は、長い航海の末に陸地に到達しました。そこはインドではなく、現在のカリブ海にある島でした。そのため、一般的にコロンブスはヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸を発見した人物とされています。ただし、コロンブス一行はその地をインドだと思ったため、現在でも西インド諸島と呼ばれています。なお、コロンブスがアメリカ大陸に到達する前から、先住民族はアメリカ大陸に居住しているため、新大陸を発見したというのは、あくまでヨーロッパ側からの視点であることは注意が必要です。また、コロンブスは多くの先住民を虐殺しており、批判的な評価がなされることも多いです。

②ヴァスコ・ダ・ガマ
ポルトガルの探検家であり、インドへの航海を目指しました。ヴァスコ・ダ・ガマは、ポルトガルから大西洋を南下して、アフリカ大陸の南端の喜望峰を廻って、インドへと向かいました。ヴァスコ・ダ・ガマは、初めて喜望峰廻りでのインドで到達した人物となりました。

③マゼラン
ポルトガルの航海者であるものの、スペイン王に信任を受けてスペインの艦隊を率いて航海に出ました。南アメリカ大陸の南端の海峡を通って太平洋へ到達しました。この海峡は、マゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれています。その後も、太平洋を横断しました。マゼラン本人は、航海の途中にフィリピンで戦死しましたが、残された艦隊はスペインに戻り、史上初の世界一周を成し遂げました。


<まとめ>
・大航海時代は、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパ人によるアジアやアメリカへの大航海が盛んに行われた時代のことをいいます。
・代表的な人物は、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランの3人です。

05月 22, 2024

南北朝時代 | 藤井寺教室

こんにちは!藤井寺教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「南北朝時代」について解説します。


南北朝時代とは、1337年から1392年にかけて京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並び立った時代のことをいいます。

1333年に後醍醐天皇足利尊氏、新田義貞らにより鎌倉幕府が倒されました。後醍醐天皇は、鎌倉幕府の政治に代わる新たな政治として「建武の新政」を行いました。しかし、この建武の新政は、公家を優遇する政策が多く武士たちの不満を招いたほか、鎌倉幕府崩壊後の混乱を収拾しきれず、足利尊氏が後醍醐天皇から離反したことによりわずか2年で崩壊しました。

後醍醐天皇と対立することになった足利尊氏は、後醍醐天皇側の武士を破ると、京都に光明天皇という新しい天皇を擁立しました。さらに室町幕府を開いて政治の実権を握りますが、後醍醐天皇は密かに京都を脱出して奈良の吉野へ逃げて南朝を開きました。これにより、京都の北朝と吉野の南朝の2つの朝廷が並び立つことになり、天皇が同時に2人いるという分裂状態に陥りました。

なお、天皇が即位する際には「三種の神器」という3種類の宝物が継承され、これらの宝物は皇室の正統たる帝であることの証となります。後醍醐天皇は、北朝に「三種の神器」を渡していましたが、吉野に逃げたあとに渡したものは偽物であり、自身の皇位の正統性を主張する根拠となりました。

その後、南北朝の対立は各地の武士たちを巻き込みながら、およそ50年に渡って続きました。しかし、徐々に南朝側が衰退していくと、1392年に室町幕府の3代目将軍の足利義満により南北朝合一が果たされ、南北朝時代は終結しました。


<まとめ>
・南北朝時代は、建武の新政の崩壊後からおよそ半世紀に渡って朝廷が分裂していた時代のことをいいます。
・1392年に、室町幕府第3代将軍の足利義満によって南北朝合一が果たされました。

04月 19, 2024

元寇 | 藤井寺教室

こんにちは!藤井寺教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「元寇」について解説します。


元寇とは、鎌倉時代に元(モンゴル帝国)が2度九州に攻めてきた出来事のことをいいます。

そもそもモンゴル帝国とは、13世紀初めにモンゴル高原の遊牧民族をチンギス・ハーンがまとめ、建国した国です。強力な軍隊を持ち、周辺の国を次々に征服していき、国家の領土を拡大していきました。モンゴル高原を中心に、西は東ヨーロッパやトルコのあたりまで、東は中国や朝鮮半島まで支配下とし、広大な領土を持つ国家となりました。5代目の皇帝である、フビライ・ハーンはモンゴル帝国の国号を「元」と改称しました。

中国や朝鮮半島も支配した元は、日本への侵略も開始します。これが元寇です。1274年と1281年の2度にわたって、日本へ侵略してきました。1度目は「文永の役」、2度目は「弘安の役」と呼ばれています。

元の兵士たちは、「てつはう」という武器を使用したり、集団戦法と取ったりして戦いました。しかし、日本側の武士(御家人)たちも奮戦し、2度とも元の侵略を退けることに成功しました。さらに、台風により元の兵士たちが乗っていた船が沈むなど、自然にも味方されて元の侵略は阻止されました。

元の2度にわたる侵略を阻止した鎌倉幕府ですが、この元寇は鎌倉幕府の支配体制を揺るがす事態に繋がりました。日本を守るために戦った御家人ですが、日本側はこの戦いで得たものは何も無かったため、幕府が御家人に与える恩賞がなく、御家人たちは何も褒美ももらうことが出来ませんでした。これにより、御家人たちの不満が高まりました。さらに、再び元が攻めてくる可能性があり、九州の守りを固めるために御家人が動員されたため御家人たちの戦費はかさみ借金に苦しむようにもなっていきました。幕府は借金を帳消しにする徳政令を出して対応しましたが、御家人の不満が解消されることはなく、鎌倉幕府の滅亡に繋がっていきました。

 


<まとめ>
・元寇は、元が日本侵略のために2度にわたり、九州に攻めてきた出来事をいいます
・鎌倉幕府は、2度の侵略を退けることに成功しましたが、御家人たちに恩賞を与えることが出来ず、御家人の不満が高まる結果となりました。

02月 22, 2024

承久の乱 | 藤井寺教室

こんにちは!藤井寺教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「承久の乱」について解説します。


承久の乱とは、1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために兵を挙げた乱のことをいいます。

1192年に源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開きました。これにより、本格的な武士の政権が始まりました。それまでは、天皇や貴族を中心とする政治体制でしたが、武士を中心とした政治体制へと転換しました。

鎌倉幕府が開かれて以降は、朝廷と武家政権である幕府が並立する形となっていましたが、初代将軍である源頼朝は天皇の血を引く清和源氏という血筋であったため、朝廷からしても身内でした。しかし、鎌倉幕府の将軍は3代目の源実朝を最後に源氏の将軍が途絶えてしまいました。その後、北条氏が執権の役職を独占し幕府の実権を握る執権政治を開始しました。

それに朝廷は反発しました。後鳥羽上皇は、幕府の倒すべく兵を挙げました。上皇の権威は絶大なので、上皇の幕府を倒せという命令に全国の武士たちは従い、幕府に味方する武士は少ないだろうと上皇は予想していました。しかし、頼朝の妻である北条政子が御家人たちに頼朝から受けた恩の深さを説く演説を行い、御家人たちをまとめ上げて多くの武士たちが幕府の味方をしたとされています。これにより、幕府側が朝廷側を破り、後鳥羽上皇の乱は失敗に終わりました。

乱の終結後、敗れた後鳥羽上皇は隠岐に流されました。また、幕府は京都に六波羅探題という役所を設置しました。六波羅探題は、朝廷の監視や鎌倉から遠く離れた西日本を支配する役割を果たし、鎌倉幕府の支配はより一層強固となりました。


<まとめ>
・承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒すために起こした乱だが、失敗した。
・乱の後、幕府は京都に六波羅探題を設置し、朝廷の監視や西日本の支配を強化した。

02月 04, 2024

院政とは? | 藤井寺教室

こんにちは!藤井寺教室です!
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

今回の記事では、中学社会科歴史的分野の「院政」について解説します。


院政とは、皇位を譲った上皇が天皇に代わって政治を行うことをいいます。

そもそも上皇というのは、天皇の地位を自らの子どもなどの後継者に譲った天皇のことを指します。つまり前の天皇ということになります。もともと上皇の住む邸宅のことを「院」と呼んでいましたが、次第に上皇自身のことを「院」と呼ぶようになりました。上皇(院)が政治を執り行うため、院政と呼ばれています。

院政を初めて行ったのは、白河上皇です。1086年に皇位を子の堀河天皇の譲り上皇となり、院政を始めました。それまでは摂関政治が行われ、藤原氏が政治の実権を握っていましたが、藤原氏と親戚関係の薄い後三条天皇の即位から摂関政治が衰え、白河上皇の院政の開始により政治の実権は上皇へと移りました。その後、平氏や源氏などの武士が力をつけ武士が政権を握る時代へと移っていきましたが、その後も上皇による院政は続きました。

鎌倉時代の1221年には、院政を行っていた後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱を起こしましたが失敗しています。

その後も院政は続けられ、江戸時代に光格上皇という上皇が院政を行っていて、これが最後の院政になっています。


<まとめ>
・院政は、平安時代に始まった上皇が天皇に代わって政治を行うこと。
・1086年に白河上皇が初めて院政を始めた。

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