西宮市鳴尾教室ブログ


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10月 15, 2018

人の生き方、考え方/パーソナル学習会/鳴尾教室/西宮

武田勝頼という人物をご存知でしょうか?
武田勝頼といえば、長篠の戦いの敗北や織田信長に負けてしまったというあまりいい印象を持たれていない武将のように思います。ここでは武田勝頼という人物について少し触れてみたいと思います。

あの有名な武田信玄の息子です。彼は1546年、武田信玄の四男として生まれました。母親は信玄が滅ぼしてしまった諏訪家の人物であり、当時信玄は勝頼を諏訪家の養子に出して一門衆として活躍させようと目論んでいました。
武田家の当主は信昌→信縄→信虎→晴信(武田信玄のことです!)と代々信の字がついています。信玄の長男は義信という名前なので信玄は義信を跡継ぎに考えていたと考えられます。
しかし、義信は30歳で信玄より先に世を去ります。廃嫡されており、一説には義信が信玄を追放しようとしたから、という説もありますが、次男、三男と盲目であったり幼い頃に亡くなっていたりと後を継げなかったため、急遽勝頼は武田家の世継ぎとなりました。

1573年、信玄が亡くなり、勝頼が後を継ぐのですが、問題は勝頼の立場です。勝頼は武田勝頼ではなく少し前までは諏訪四郎勝頼でした。武田家の重臣達は皆武田家に付き従っていたのであり、諏訪家の勝頼はあまり歓迎されなかったのではないかと思います。
その後、勝頼は怒涛の勢いで勢力を拡大します。軍事的な才能は素晴らしく、後世には強すぎる大将と言われるほどの人物でした。
しかし、相手は織田信長。勝頼は無位無官のままにされてしまい、長篠の戦いで重臣を失います。長篠の戦いの後、北条家と婚姻同盟を結んでおり、上杉家の跡継ぎ争い(御館の乱)に際して勝頼は北条氏政の弟に味方します。しかし御館の乱で勝頼は突如として同盟相手の弟を裏切り、長尾顕景の味方をします。私はこれは大きな失策だったのではないかも考えています。歴史にもし、はありませんがもし北条、上杉、武田の三国同盟が出来ていたらどうなっていただろうと考えてしまいます。
武田勝頼の息子の名前は信勝、自身は信勝が当主となるまでの間の陣代としての立場になっていました。勝頼は自身の力を示すために勢力を広げましたが最後は一門にまで裏切りに合い、滅んでしまいます。

もし、~が~なら。これを考えるのも日本史の楽しい魅力の1つですね。

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