芦屋市打出教室ブログ


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02月 15, 2017

日本史読み物①~院政とは?~

こんにちは!パーソナル学習会でございます。

今回は全く趣向を変えて日本史について考えていこうと思います。

 

第1回のテーマは「院政」についてです。

まず院政について。院政は白河天皇が始めたと言われる政治体制のことで、白河天皇は息子の堀河天皇に早くから天皇の位を譲り、自らは白河上皇、という「上皇」という立場で政治を行いました。ちょうど藤原氏の摂関政治が終わりを告げ、武士の世の中になる時期が最も院政で有名です。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇はよく教科書にも出てきますね!

 

・なぜ摂関政治が衰えて院政になったのか。

摂関政治は藤原氏が天皇に娘を嫁がせ、生まれた子供を天皇にして自身は天皇が幼いときは摂政、天皇が成人したら関白という位につけてもらい(人によっては関白になっていません。)、政治を行いました。天皇の一族になっているため、発言力はかなりのものです。

が、この政治は後三条天皇の即位によって衰退します。後三条天皇、白河天皇の父親にあたる人物ですが、彼は母親が天皇家の人物です。彼は1068年、天皇に即位すると皇族重視の政治を行い、翌年の1069年に延久の荘園整理令を発令(宣旨枡という枡を使って単位の統一を行った話は高校日本史ならよく出ます!)するなど徹底的に自分の力を発揮し、藤原氏は発言力を落としていきます。後を継いだのが後三条天皇の息子の白河天皇です。彼も皇族重視の政治を行い、院政を行うことで藤原氏ではなく自身の発言力を高めました。

簡単にまとめると藤原氏を外戚としない天皇が即位したから、と考えておくとよいでしょう。

 

・院政の問題点

院を立てた白河上皇は院庁を作り、院に北面の武士を設置して、そしてそこから院宣(院の指示)が出されました。白河上皇は堀河天皇、鳥羽天皇(堀河天皇の子)、崇徳天皇(鳥羽天皇の子)と次々に天皇を変えていきます。成人すれば天皇が政治を行いたくなりますが、幼い子は政治が出来ないので、代わりに上皇が政治を行う形が多かったとされます。白河上皇が亡くなったとき、天皇は崇徳天皇、そして上皇になったのが鳥羽上皇になります。(堀河天皇は亡くなっていました。)

鳥羽上皇は崇徳天皇と仲が悪く、わずか2歳の自分の子、近衛天皇を天皇にしてしまいます。しかし1155年、近衛天皇が亡くなり、その翌年、鳥羽上皇もなくなってしまいます。その年、その後継ぎ争いとして崇徳上皇とその崇徳上皇の弟、後白河天皇が大きな戦闘を起こします。これを保元の乱といいます。1156年のことでした。その乱は後白河天皇側の勝利に終わり、彼が今度は院政を始めるのですが、後白河上皇とその子、二条天皇とでまた争いが起きてしまいます。これを平治の乱といいます。1159年のことでした。

彼らは武士の力を借り、大きな戦争に発展します。院政はこのように後継ぎ争いのため、親子間や兄弟間の仲を悪くしてしまい、結果的に戦いとなってしまうといった側面もあったのです。

 

・今回のまとめ

院政の始まり方から、保元の乱、平治の乱に発展するまでをしっかり流れで覚えておきましょう。院庁、院宣といった語句もしっかり覚えておきましょう。

人物も出てきます。白河上皇と後白河上皇は全く時代が違うのもお分かりいただけたかと思います!

日本史、歴史は楽しく流れを覚えていくととても早く覚えられますよ!今回は変わった趣向でしたが、また機会があれば別の時代も解説します!

 

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