藤原道雅と失恋
こんにちは。今回は久しぶりに平安時代の短歌に戻ります。
藤原道雅、という人物がいます。
彼は三条天皇の娘、当子内親王に恋をしていた、と噂が立ちます。
しかし、三条天皇は娘を溺愛しており、密通の噂が立った時点で激怒してしまい、二人の仲を引き裂いてしまいます。
この時に詠んだとされる歌がこちらです。
今はただ 思い絶えなむ とばかりを
人づてならで 言いよしもがな
訳:今はあなたへの恋慕は諦めました、とだけを人づてでなく、直接伝えたい。
当時はもちろん携帯電話などないわけですから、会って伝えるか、こうして激怒された後ならば人伝えで伝えるしかありません。今回の短歌はこうした想いが直接伝わりやすい、現代語に近い単語と言えそうです。
1192作ろう鎌倉幕府…ではなく。。
こんにちは。今回は鎌倉幕府について触れていきたいと思います。
早速ですが、1192作ろう鎌倉幕府で有名な鎌倉幕府。今現代の教科書では1185年に変わっているのをご存知でしょうか。
鎌倉幕府という政治機構の存在は1185年、源頼朝の征夷大将軍就任が1192年で征夷大将軍がいて初めて幕府というものがある、と考えれば1192年の開始で大丈夫でしょうが、壇ノ浦の戦いがあった1185年には既に政治機構があったと考えられており、これを起こしています。今の時代ではいい国作ろう、ではなくなっているのですね。
社会ではこうしたことが数多くあります。私自身も選挙権は20歳以上の男女で習いましたが今は20歳以上なんか書いてしまうと✖になります。消費税も3%から5%、そして8%になっています。お札の肖像だって変わりました。
常識、というのは時代の流れとともにうつり変わってきます。次は何が変わるのか、2年後のオリンピックの後にどんな世の中になっているのか。想像もつきません。
さて、今回は鎌倉幕府にちなんで鎌倉右大臣の短歌を紹介します。鎌倉右大臣、わかりやすくいうと3代将軍源実朝のことです。彼は金槐和歌集という短歌集をのこしました。そして百人一首にも以下のような短歌を作っています。
世の中は 常にもがもな 渚こぐ
あまのおぶねの つなでかなしも
なぜ最初にこの話をしたかというと、彼はこの短歌で世の中が変わって欲しくない、船がただ引かれている様子を見てもの悲しく思っていると詠みました。
これだけの短歌を作った彼も残念ながら甥の公暁に暗殺されてしまいます。数え年28歳の若さでした。彼の後、源氏の将軍ではなくなってしまいます。1219年のことなのでほぼ800年前のことですが、この時もまた、世の中がまた大きく変わることになってしまうのです。
天智天皇の話
こんにちは。
今回は天智天皇に触れていきたいと思います。
彼は626年生まれと言われており、645年の大化の改新を始めだした時は数え年20歳。彼は645年、母親で時の天皇であった皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を暗殺するのである。この事件を乙巳の変といい、その後大化の改新が始まるのである。
ただ、そこまでの経緯があるにも関わらず、中大兄皇子(天智天皇)が即位したのはなんと乙巳の変があった15年以上経ってからのことであった。様々な説があり、こういった説を考えていくのも大変楽しいものである。
ちなみに教科書では中大兄皇子(なかのおおえのみこ、おうじ)で有名だが本名は葛城皇子である。
さて、彼の歌は百人一首の4番目にも記載されている。
秋の田の かりほのいほの とまをあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
屋根の苫が荒くてそこから露が落ちてきて袖が露で濡れてしまった。
という歌である。彼の周りには絶世の美女で有名な額田王がいますが額田王は弟の天武天皇の妃。さて、こうした恋愛のこじれというものは昔からあるものなのですね。
三条天皇と短歌
今回は天皇シリーズ。三条天皇の短歌をご紹介します。
三条天皇という人物をご存知でしょうか。彼は藤原道長の時代の天皇であり、一条天皇の次の天皇に当たります。彼の治世は苦難の連続で大変なものでした。
藤原道長の権力に推され、自分の息子ではなく、前の一条天皇の子供(後一条天皇、道長の長女、彰子の子。)に譲位する際に詠まれたとされる短歌が百人一首にのこっています。
心にも あらでうきよに ながらへば
こひしかるべき よはのつきかな
望月の歌を詠んだ藤原道長と同じく、月が出てきています。後鳥羽上皇の時もそうですが、天皇と時代の権力者との争いを題材にされる場合があります。三条天皇の場合は三条天皇の娘が産んだ後三条天皇が天皇家の政治を復権させました。こうした時代の流れを1つ1つ見ていき、その時代の人が何を考えて短歌を詠んだのかを考えるのも百人一首の楽しみ方の一つです。
ぜひ日本史を楽しんでみてください!